形成期1905~1925

京浜本線の形成と積極拡張策の展開

京浜本線の完成と鉄道作業局

年の瀬も迫った、1905年12月24日。川崎~神奈川間の開通により京浜間が結ばれた。この開業の様子を同日の「貿易新報」は次のように報じた。

「全線の乗り心地は地盤の固まらざるがため、激しき上下動を感ずる箇所少なからざるも、車室の広く新しきことと云ひ停留所の市内電鉄より少なきことと云ひ速力の極めて疾きことと云ひ車掌運転手が親切にしてにして技倆の発達していることと云ひ汽車に比べて優れる点多し。若しこの長距離間には喫烟を許したらんには旅客この上なかるべく、ために汽車は急行の外乗客の全部を京浜に奪はるるに至らんも知るべからず。」

京浜電鉄の品川~神奈川間の乗車賃は片道18銭、往復34銭で、官鉄(鉄道作業局)の品川~横浜間の25銭に比べるとはるかに格安だった。京浜電鉄では両市内中心に行くには、それぞれ、市内電車に乗り換えなければならない煩わしさがあったものの、新聞も報じたように官鉄より京浜電鉄の方が優れている点が多かったことが、乗客の心を掴み、開業後の乗客数は月平均で約2倍強に増加した。一方の並行する官鉄品川~神奈川間の乗客数は、京浜電鉄全通後の1906年9月には63%もの客が減少したといわれており、京浜電鉄が官鉄の乗客を奪ったことがわかる。そのため、官鉄は京浜電鉄が55分かかる京浜間を、わずか27分で走破する最急行列車の運転を1905年12月27日より開始した。だが、この最急行列車は新橋・横浜をそれぞれ8時と16時の発車であり、7~8分間隔で走らせていた京浜電鉄への対策としては焼け石に水であった。

京浜間全通時の広告

既存線の改良

インターアーバンの実現へ向けて、単線や併用軌道であった既存線の改良が必須となった。しかし先述の神奈川線の建設に全力を注ぐため、既存線の改良は一旦棚上げとなっていた。そして、神奈川線の建設が終了したことに伴い、既存線の改良が始まる。1906年の8月には品川~大森海岸間、10月1日には学校裏~梅屋敷および雑色~川崎の複線化、ならびに新設軌道化などの工事を終えた。1910年3月31日には支線の蒲田~穴守間の複線化も行われている。さらに、1911年4月1日にはそれまで、仮橋で対応していた六郷川橋梁も、新たに鉄橋を架橋し使用を開始した。なお、梅屋敷~雑色の専用軌道化は1923年まで待たなければならない。

こうした既存線の改良により、1912年5月17日に、「電車運転速度変更申請」を行い、1913年6月19日からボギー車に限り、時速40キロの認可が下りた。この速度向上を契機に、1915年には手動式ながらも閉塞信号機が導入され、1916年からは踏切遮断機の工事が始められ、安全性も一歩前進することとなった。

沿線開発事業の展開

京浜電鉄の路線網が順調に拡大していき、ひと段落すると、物珍しさから乗っていた乗客も次第にはいなくなってしまうので、いかにして集客をはかるかは一大問題であった。幸いにも、京浜電鉄の沿線は旧東海道上に沿っており、川崎大師や穴守稲荷といった集客力に富む寺社が点在しており、観光客を集客するのには最適な環境が整っていた。しかし、当時は今日のように、遠くに旅に出かけることは日常的ではなかった。そのため、新聞記事への紀行文の記載や現在の沿線ガイドにあたる『京浜遊覧案内』などを発行し、乗客の積極的誘致に努めた。また、積極的な行楽施設の開発にも取り組む。まず1909年の春には穴守神社の社殿の北側の干潟を埋め立て、羽田運動場を開設した。さらに同年の夏季に新聞社とのタイアップにより、大森及び子安に海水浴場を開設し、1911年7月5日には電鉄直営の羽田遊泳場を開設した。これら海水浴場の開設によって、電車も夏季になると臨時列車の増発に追われるなど、戦前の京浜電鉄の夏の稼ぎ頭として君臨することとなる。また1907年には川崎大師に隣接する3万3100平方メートルの土地を、川崎大師の参拝客が参拝を済ませた後の憩いの場としてゆっくりできる自然公園として造成した。この大師公園は現在でも市民の憩いの場として利用されている。このほかにも、1914年4月に開園した鶴見の花月園と協定を結び、同年4月12日に花月園側の全負担によって、花月園前停留所を設けた。

鉄道会社が自ら、住宅の分譲を始めたのは、1910年に小林一三のもとの箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)によって売り出された池田住宅地であることは、有名な話であると思うが、京浜電鉄でもこれに習って、生麦に4万9600平方メートルの土地の分譲をすることにした。現在では住宅が密集し工場が隣立する生麦であるが、当時は海岸を目の前に見る風光明美な土地であった。そして1914年5月1日より、分譲を開始し約半分は売約となった。途中、第一次大戦勃発による株価の暴落から、売れ行きは低下したものの、大戦景気が訪れると、再び売れ行きは好調に転じ1918年には完売する運びとなった。京浜電鉄が手掛けた最初の不動産事業は成功のうちに終わり、これら一連の展開は関東私鉄の沿線開発事業の先駆けとなったと言っても過言ではない。

大師公園では1987年3月に川崎市が中国の瀋陽市との友好都市提携5周年を記念し、中国式の自然庭園「瀋秀園」が開園され、市民の人気の的となっている。

鉄道院京浜電車線の開業

1907年から1908年にかけ、官設鉄道である鉄道作業局は、帝国鉄道庁に格上げされ、鉄道院へと名称を変えた。その間にも、京浜電鉄との攻防戦は続き、官鉄では指定列車割引制度や特定運賃制度など様々な攻めが講ぜられていた。これらの影響によって、京浜電鉄の京浜間直通客は著しく減少していた。それでも、先述のように沿線開発が進んだことから、全体として乗客数・収入共に安定していたのだが、鉄道院は京浜間の乗客増加と京浜電鉄へ流れてしまった乗客の奪還をはかるため、新たに京浜間の電車運転を企画したのである。そして、鉄道院京浜線は1914年12月に完成したのだが、故障のため一時延期され、1915年5月10日より東京~高島町での営業運転を開始した。(12月20日には桜木町に延伸)この鉄道院の京浜線は、中間に大井町駅を開設して短距離客の集客、さらに京浜電鉄と同じように電気車を用い15分間隔という頻発運転を行った。鉄道院京浜線はこれらの展開により、今まで短距離客や頻発運転を本領としていた京浜電鉄の強敵となった。京浜線開業後の京浜電鉄の乗降客は普通、定期、回遊等の全ての種別で減少となり、開業前と比較すると、総数15%、京浜間直通客では実に43%もの減少を記録することとなった。1915年8月19日の「時事新報」は「ついに一方が負けた並行電車」と見出しをつけて、京浜電鉄が鉄道院京浜線に比べて、時間、料金、設備の新しさなど全ての面で劣っているということを報じた。

鉄道院京浜線の開通後、業績を低迷させていた京浜電鉄に好転の兆しを見せたのが第一次世界大戦の勃発である。この大戦景気により、京浜電鉄の沿線にあたる京浜間には、いくつもの工場が建てられていき、「京浜工業地帯」が形成されていった。京浜工業地帯の形成と共に、京浜電鉄の通勤輸送は増大し、大戦勃発時の1915年の定期旅客は10%にも満たなかったものの、終戦後の1921年には25.8%にまで達した。この定期旅客の増大は、今までの行楽客などの流動的な客を基盤していたものが、固定的な客を基盤することとなり、安定的な経営を保持することが可能になったのである。

川崎運河の開削と海岸電気軌道

大戦景気により進出してくる工場を、川崎町は次々に受け入れていたが、このペースで工場が増えていくと、将来工場用地が足りなくなるというのは明白だった。そこで川崎町は、川崎と鶴見の間にある潮田海岸から、八丁畷付近までの2.5kmに及ぶ水路を開削し、両側を工場用地にする計画を立てたのである。同計画は、川崎町から京浜電鉄へ打診され、京浜電鉄は了承し、一任されることとなった。1919年8月に工事に着手し、1922年5月に完成したものの、この時は既に大戦景気は冷めており、戦後恐慌がはじまっていた。さらに、後述の関東大震災の影響も受け、工場の進出は思うように進まず、住宅地としての活用に変更せざるを得なかった。

京浜電鉄は、1910年に大森から羽田を経て、大師、鶴見(生見尾村)へと至る生見尾支線の建設を出願していた。この生見尾支線計画は、当時観光客などの誘致に力を注いでいた京浜電鉄の政策の一環であったが、京浜電鉄のテリトリーに同業他社の進出を防ぐ企業防衛の意味も持っていた。だが、当時は採算性が合わないと、申請は却下、再び1916年5月に出願するも、却下されてしまった。しかし、川崎運河計画の進展に加えて、沿線の工業化が急速なものとなると、京浜電鉄としても、この魅力的な計画を捨てることは出来ず、再び具体化することとなった。今度は却下されまいと、1920年11月25日海岸電気軌道を設立させた。関東大震災などの影響から着工は遅れ、1924年8月にやっとのことで工事に着手し、工事の進捗に合わせ順次開業させ、1925年10月16日に総持寺~川崎大師間が開通した。同線は京浜電鉄の支線的な役割を担うこととなり、車両も京浜電鉄の旧形が投入されることとなったが、折しも世界恐慌により、沿線の工場は業務縮小による人員削減を行ったため、乗客は伸び悩み、資金難に陥った。種々の救済措置を施したが、1930年3月1日に並行して貨物営業を行っていた、鶴見臨港鉄道に譲渡されることとなった。譲渡後は、鶴見臨港鉄道軌道線として営業するも、貨物営業をしていた鉄道線が旅客営業を開始したことから、県道(産業道路)の拡幅工事に合わせて1937年12月1日に廃止されてしまった。

川崎運河は、多摩川下流域まで開削されることが計画されたが、不況により中止。多摩川と運河の間に建設された川崎河港水門だけが、その壮大な計画を物語っている。

海岸電気軌道の廃線後は、産業道路に転用され、現在でも京浜工業地帯の物流の大動脈として活躍している。


電燈・電力事業の進展と撤退

京浜電鉄の電燈事業は、次第に電気の利便性が認知され始めると、点灯数も増加していった。これに拍車をかけたのが1904年に勃発した日露戦争による戦争景気であった。好景気は京浜電鉄の沿線に、様々な工場を進出させ、電力の需要を急激に増大させた。増大する需要に応えるため、1913年4月1日には桂川電力(現東京電力)と水力電気購入の契約を結び、最盛期の1921年には20町村、約3万戸に電燈を供給した。ちょうど、その頃は先述の鉄道院京浜線が開業し、電鉄事業が苦境だった時期で、伸び悩む電鉄事業を補完する役割を果たすことができた。しかし、第一次大戦の好景気も終わると、次第に工場の縮小や閉鎖が相次いだ。また電力業界の競争が激しくなり、1922年に桂川電力と横浜電燈の2社が東京電燈に合併され、この東京電燈と京浜電鉄の間で供給範囲が競合するようになった。1913年以来、桂川電力からの受電に頼っていた京浜電鉄は非常に苦しい立場に立たされることなった。折しも、川崎運河開削事業に着手しており、莫大な資金が必要であったことから、電燈・電力事業よりも将来性のある鉄道・沿線開発事業に資金をつぎ込む方が果策と考えた京浜電鉄は1923年5月1日に電燈・電力事業を群馬電力に売却した。とはいえど、京浜電鉄の全収入の31%を占めていた同事業を手放すのは如何なるものかと、一部株主の強硬な反対意見があった。しかし、売却から4か月後関東大震災が発生したと考えると、賢明な判断だったのかもしれない。

事業開始時の供給範囲と、群馬電力譲渡時までに拡大した供給範囲。京浜電鉄の沿線だけでなく、小田急線(当時はまだ未開通)の域まで達していることが分かる。

関東大震災の発生と復旧

1923年9月1日午前11時58分、関東一円は突如として激しい揺れに見舞われた。「関東大震災」の発生である。関東大震災は関東の一連地域にたくさんの被害をもたらしたが、京浜電鉄も例外ではなかった。線路は波打ち、架線はビュービューと唸り、橋梁はゆらゆらと大きく揺れた。京浜電鉄が受けた主な被害を整理すると、本線六郷川橋梁並びに穴守線海老取川橋梁の橋脚折損、軌道の亀裂、築防の決壊・沈下、本社事務所の倒壊、発電所建物の崩壊、変電所蓄電池の破損、川崎車庫倒壊によるボギー車4両破損、5両の大破であった。幸いにも、1人の死者も出さなかったが、被害総額は前年の旅客収入の約30%にあたる53万円にも達した。昼夜問わず続けた復旧工事は9日間を要し、この間は全線で休業を強いられた。9月11日より、六郷川橋梁を徒歩連絡にすることで、品川~子安間の運転を再開、10月15日には稲荷橋~穴守を除き全線復旧した。余談だが鉄道省の東海道本線は品川~六郷川東岸までの開通が9月4日で京浜電鉄より早かったものの、京浜間全通は10月21日なので、京浜電鉄の方が一足早かったことなる。京浜電鉄の一連の復旧工事は応急処置に過ぎず、後に本工事を行うこととなったが、その際に軌条重量化、枕木交換が行われ、高速電車の礎を築いたことは、ある意味で震災という災いが電鉄の発展への転換期だったかもしれない。そして、減収と嵩んだ工事費だが、これも震災後、東京市内から郊外に移住する人が増え、旅客収入も増加し、それらをカバーはおろか、総計的に増収に導いたのも事実である。さて、関東大震災の際に忘れてはならないのは、阪神電気鉄道の存在である。京浜電鉄では復旧の際に5両が大破していたことから、間引き運転をすることを強いられたいたが、そこに阪神電鉄が京浜電鉄に対して話を持ちかけてきたのである。「丁度、阪神では新型車の増備で、旧型車はお役御免となっていいる。そこで、車両不足に悩んでおられる、東京市と京浜電鉄に車体を譲ることを考えているのだが」と。阪神1形電車の譲渡を促し、京浜電鉄は東京市電気局と共に車体を貰うこととした。明確な時期は残っていないが、東京市に25両、京浜電鉄に5両の車体が中央線経由で運ばれ、京浜電鉄では大森車庫に運ばれた。そこでストックされていた電装品を装着し、102号型として1924年の51号型の新造までの僅かな期間ながら、不足分を補うというピンチヒッター的な役割を果たしたのであった。

※阪神電鉄が東京市に車体を譲渡したのは事実ですが、京浜電鉄に譲渡したのは架空上の話です。

輸送設備の近代化

京浜電鉄は関東大震災を前後して、輸送設備が大幅に近代化された。それは路面電車から高速電車への変貌である。ここでは、線路・保安・車両の3点の視点からその変貌ぶりを見ていきたい。

鉄道の基礎ともいえる線路は、1923年4月1日に、最後まで残っていた梅屋敷~雑色間の併用軌道が新設軌道に切り替わって、本線全線が新設軌道となった。なお、1925年の高輪乗り入れに際して再び併用軌道区間は復活してしまっている。そして、関東大震災後の1924年から数年時をかけて、踏切145箇所のうち、47箇所を廃止し、軌条の100ポンド化、架線のカテナリー化が進められた。また国道1号線の改修に伴い、1926年6月29日に鈴ヶ森付近で線路の高架化が行われた。創業時からの路面電車のスタイルが依然として残っていた大師線も1926年から1928年にかけて、ルート変更の上、新設軌道化された。

1915年に手動式の閉塞信号機を導入したことは先にも述べたことだが、これは停留所同士の間を一つの閉塞とし、各停留所に信号係を配置して、安全を確認したら信号を出すという手動式のものだった。だが信号係が誤認すると、大事故につながってしまう重大な欠点があり、度々監督官庁から不十分な保安設備だと指摘されることもあった。そのため、1921年には絶縁軌条を用いた自動式に更新されたが、これも運転本数が増加するにしたがって対応が難しくなっていき、1925年から連続軌条回路式の自動閉塞信号装置へと変更された。これは現在でも使用されているものの基本となっている。

電鉄の華ともいえる車両の近代化も進んだ。1922年に登場した41号型は運転台のデッキ部分が廃され、客室と一体化することによって、乗務員の労働環境を改善させたほか、連結運転を考慮して総括制御が可能なHL式の間接制御と、非常弁付きの直通式の制動装置が導入された。さらに1924年に登場した51号型は、初めて車体を半鋼製とし、電動機出力の大型化、新型台車導入による乗り心地の改善が図られた。これらの車両には、連結に備えて、順次米国製のトムリンソン式連結器が取り付けられている。また、それと並行してホームの延長工事やかさ上げ工事が行われ、1928年6月より電車2両連結運転を開始し、京浜電鉄が路面電車であると感じることは次第に薄まっていった。

※史実では、トムリンソン連結器ではなくウエスチングハウスの連結器が採用されています。