拡張期1925~1942

両市内乗り入れと高速電車の確立

青山線計画と高輪駅開業

京浜電鉄の東京側のターミナルは品川駅と称しながらも、実際は荏原郡にあり、名ばかりのものであった。京浜電鉄では創業期の章でも述べたとおり、1903年から東京電車鉄道との直通運転交渉を行ったものの、様々な要因から実現は出来ぬままでいた。そこで、京浜電鉄は独自の東京市街乗り入れ計画を立てる。青山線計画である。同計画は、東京‘市内`への乗り入れが不可能ならば、品川を起点とし大崎村、目黒村を経由し渋谷村の青山まで、市内と郡部の境界線沿いに路線を敷設するというもので、1907年に申請された。その後も東京市内の白金台を経由するという変更申請を行い、1910年6月18日には認可された。この計画では、青山線の線路を東京鉄道(1906年に東京電車鉄道等、3社が合併して設立)と高輪付近で一部共有し、東京鉄道の高輪車庫敷地内に共同停留所を設置するというものだったが、1912年10月に経営を移管した東京市電気局から正式に拒否の通告を受けた。そこで、京浜電鉄は一歩譲歩し、1917年12月に東京市電が京浜電鉄の品川停留所まで乗り入れる契約を締結した。譲歩策ではあったものの、将来的にはそのまま京浜電鉄の車両が、市電の線路に乗り入れて市内の深奥まで直通することを目論んでいたのだ。結局は、また東京市の厚い交通政策の壁に阻まれ、実現はしなかったものの、大きな一歩であった。そしてこの契約に則り、市電の終点であった八ツ山停留所と京浜電鉄の品川停留所のある八ツ山橋北端の間に、市電の延長線が敷設されて1924年3月から東京市電の車両が京浜電鉄の品川停留所へ乗り入れることとなった。それまで、品川で降りた京浜電鉄の客が市内へ向かうには橋を徒歩で渡る必要性があっため、一段と利便性が向上したということになるが、期待したほど乗客増加にはつながらなかった。

土地買収などが難航して、実現できていなかった青山線計画は、省線品川駅前にある毛利公邸の一部を譲り受けることで、一歩前進した。この譲り受けた土地に、新たに1925年3月11日に高輪駅を開業させた。この高輪駅は、西洋風の鉄骨鉄筋コンクリート造の2階建(一部3階)で、20数種の売店が出店されたターミナルビルディングとなっていた。なお、品川停留所から高輪停留所までは、東京市電の線路上を走り、途中で分岐し高輪駅に至るもので、京浜電鉄と東京市電が互いに線路を共用しあう相互乗り入れの形をとっていた。しかし、結局東京市内へ向かう客のほとんどは、乗り換えが便利な品川の停留所で市電に乗り換えていたため、高輪駅を利用する人はそれほど居なかった。それに、省線品川駅へは一旦道路を横断しなくてはならず、本意たるターミナルとは言えなかった。とは言えど、東京市内に駅を設置したことは、非常に大きな意義を果たすことができた。

京浜電鉄の大きな転換期

京浜電鉄の業績は大正の末から停滞を続けていた。その原因というのは、両市内ターミナルの中途半端さ、省線電車の増発、新京浜国道上で運行を始めた乗合自動車、そして横浜市電の生麦延長などがあげられる。京浜電鉄はそれらの打開策をふたつの方向で検討した。一つは既存線の集中的改良、もう一つは、さらなる事業域の拡大である。前者は両市内の乗り入れ問題の解決、既存線の近代化など従来の京浜電鉄の基盤をさらに強化するもので、後者は湘南電気鉄道との連携による三浦半島へのテリトリーの拡大であった。湘南電気鉄道は第一次大戦景気にわく1917年9月に、横浜を起点として、当時鉄道省横須賀線しか走っていなかった三浦半島を一周する路線を企てた会社である。発起人代表は南満州鉄道総裁などを歴任した鉄道界の実力者野村龍太郎で、1923年8月には認可が下り、いよいよ会社設立への準備を進めていた。そうした矢先、関東大震災に見舞われてしまう。金融市場は甚だしい不振に陥り、湘南電鉄は会社組織に着手することさえ危うくなった。そこへ安田保善社が、引き受けない株は全て引き受けると名乗りを出て、なんとか会社設立の見通しが立ったのである。一方の京浜電鉄は1911年6月の第一回社債を、安田銀行が引き受けて以来、同銀行系から取締役を迎えており、安田系の会社とは非常に結びつきが強かった。そのため、京浜電鉄に湘南電鉄への経営参画の機会が訪れたのであった。しかし、湘南電鉄が通る三浦半島は、横須賀・浦賀などの市街地を除くと発展が乏しく、開発しようとも軍の重要施設がひしめく要塞地帯であったため陸海軍からの様々な制約が付きまとうものであった。さらに、計画路線は丘陵地帯を通るため、大部分が隧道を貫通しなくてはならなく、建設費も莫大なものになると思われた。莫大な投資に見合う、利益回収の見通しが立たないと考えられ、京浜電鉄では無理をおかしてテリトリーを拡大するよりも、既存線の改良で従来テリトリーの基盤を強化する方が堅実だとして、既存線の集中的改良にいそしむことにした。

横浜市内乗り入れ問題

当時の京浜電鉄の横浜側のターミナルは市内のはずれにあった神奈川駅で、市内中心へ行くには横浜市電への乗り換えが必須であった。このターミナルの位置の中途半端さは八ツ山停留所と共に京浜電鉄が抱えていた最大の課題でもあった。八ツ山停留所は高輪駅の開業で、なんとかその課題が軽減されたが、横浜側のターミナル問題は依然として解決されぬままでいた。しかし、関東大震災の発生によりその問題は一気に解決されようとした。震災により横浜は甚大な被害を受けたため、大幅な都市の改造が必要になったのである。京浜電鉄はこれを絶好のチャンスと捉えて、一気に市の深奥長者町に至る路線を出願したのであった。しかし、それは横浜市都市計画、復興事業、鉄道省改良工事が変更された場合は、これを否めないなど、様々な条件付きの認可であった。同計画は多くの計画と、並行して事業を行わなければならず、その調整は非常に難航した。そしているうちに、1928年10月15日、鉄道省の東海道本線の神奈川~保土ヶ谷間の路線変更が行われ、神奈川駅は廃駅となり横浜新駅(現横浜駅)がつくられた。その間に復興事業進展に伴う横浜市電の路線付け替えが行われたため、京浜電鉄では神奈川駅での連絡相手を失ってしまった。その対策として、早速軌道法で横浜新駅への乗り入れを申請した。工事は2回に渡って行われた。まず1929年6月22日、月見橋際に横浜仮駅を開設し、省線横浜駅へ徒歩連絡を可能にした。そして、翌1930年2月5日に鉄道省横浜新駅に完全に乗り入れることが出来た。なお、これを前にして各変電所設備の新改築及び、出村駅と仲木戸駅に待避線を新設し、横浜新駅への延伸と共に高輪~横浜を31分で結ぶ急行運転の開始をした。これは関東私鉄における急行電車の先駆けとなった。

急行運転の開始を告知する当時のポスター

青山線の計画倒れと、省線品川駅乗り入れ

青山線計画は高輪駅乗り入れ以後、土地買収の難航などから着工に至らず、1928年7月には工事施行延期願が不許可となり、特許が消滅してしまい青山線の建設は計画倒れに終わった。高速電車化を推進していた京浜電鉄にとって、併用軌道での乗り入れは時代にそぐわなかったことも、建設が進まなかった理由の一つとも言える。青山線計画が行き詰りつつあった、1926年5月に京浜電鉄は新たに蒲田停留所から省線五反田駅間の地方鉄道免許を出願し、1928年5月には認可が下りた。この五反田延長線は、内務省から告示のあった押上~五反田間の地下鉄道と直通運転をはかるものであったが、すでに同間には池上電気鉄道が開業しており、また押上~五反田の地下鉄が予定通り竣工するとは限らず、万一これも計画倒れになってしまうと、かなりの損失を負うことが予想された。そこで、1928年12月、副社長に就任した生野団六は、京浜電鉄を利用する客は五反田や青山の山の手方面より、品川で省線や市電に乗り換えて下町に向かう客の方が多いことを指摘し、ひとまず、ターミナルを高輪駅から省線品川駅に直結させることを主張した。将来的には当時、浅草~上野間で日本初の地下鉄を運行していた東京地下鉄道が品川まで伸びるということなので、一気に東京随一の繁華街浅草まで直通できる非常に有望たる計画であった。そして同計画は1931年5月1日に許可を得て、八ツ山橋の南寄りから省線品川駅までの新設軌道を高架線で建設した。さらに、多額な建設費となることが予想された横浜市内延長線を地方鉄道補助法の助成で賄うこと(詳しくは後述)と、東京地下鉄道との直通運転のため、軌間を従来の1372mmから1435mmへと広げる工事にも着手した。工区は横浜~生麦間から始められ、生麦~川崎、川崎~蒲田、蒲田~大森海岸、大森海岸~八ツ山橋の5つに分けて行われた。そして1933年4月1日、軌間拡張工事の完了と共に、省線品川駅への乗り入れを果たした。新たな品川駅には2階をホームとし、地下1階・1階は京浜デパートに、3階はビリヤード場に賃貸した。なお品川駅開業と同時に、駅機能を失った高輪ビルディングは、大改造の上1935年にから高輪事務所として開設した。

京浜デパートの設立と沿線開発事業の進展

関東大震災の影響で、大きな被害を被った老舗百貨店「白木屋」は東京市の震災復興計画が遅れたため、日本橋本店を復旧出来ずにいた。そこで、白木屋は補填策として、郊外に分店を出店することにした。その一環として、白木屋は京浜電鉄の省線品川駅乗り入れに際して、分店出店を打診したのである。京浜電鉄もこれを了承したが、あいにく当時は反百貨店運動が起こっており、百貨店協会が既存の百貨店は新たに支店を出店しないという項目を盛り込んだ「自制協定」を締結したため、白木屋の直接出店はその協定に抵触する可能性があった。そこで、白木屋と京浜電鉄は、新たに共同出資で「京浜デパート」を設立させ出店させることにした。京浜デパート品川本店では1階を呉服・雑貨・食料品を主として化粧品・文房具の売り場に、地下1階には家具、美術工芸品の売り場のほか食堂・理髪室を備えていた。なお京浜デパートは、俗に言われる百貨店のような規模ではなく、現在のスーパーに近いものであった。京浜デパートはその後、1934年に省線蒲田駅近くの蒲田店を、1935年には鶴見臨港鉄道の駅ビル内に鶴見店、京浜川崎駅前に川崎店と急速に展開させていった。いずれも、小規模ながら利益率は非常に高く、かなり効率的な経営が行われたいたことがわかる。しかし、それが遠因となり、川崎の商店街組合が猛烈な反対運動を起こし、川崎店は閉店に追い込まれることとなってしまった。京浜デパートは川崎店以外は、好成績を示したため、京浜電鉄が横浜市内延長線を建設した際、途中の伊勢佐木町に地上7階建ての駅ビルを設け、その中に初の大型店舗として入居することとなった。京浜デパート伊勢佐木町店は、同じく伊勢佐木町界隈にあった野澤屋、松屋などと並んで、横浜を代表する百貨店となった。他が高級志向であったのに対して、京浜デパートは大衆に向けた志向で多くの人に好評を博したのである。そして、伊勢佐木町ビルの最上階には「京浜映画劇場」を開設させた。京浜映画劇場はその後、1940年の京浜川崎駅ビル新築に伴い川崎にも進出し、こちらも大衆的な映画を上映し、多くの好評を博したのであった。

この頃になると、かつて海水浴場として賑わった子安の海水浴場も、埋め立て事業の進展により閉鎖されることとなった。そこで、1932年7月にそれまで羽田遊泳場を設置していた羽田運動場内に新たに浄化海水プールを開設させた。このプールは長さ70m、幅30mにも及び、干潮時でも遊泳ができると、東洋一の大プールとして人気を集めた。このときの羽田穴守海水浴場には、ほかにも温浴場や余興場など様々な施設が配置された一大レジャーランドであったのである。そんなのどかな羽田に転機が訪れたのは1931年のことであった。今まで羽田には1917年に開校された日本飛行大学校があったが、逓信省がそこに日本初の民間航空専用空港「東京飛行場」を開設させたのである。

乗合自動車業への参入

京浜電鉄が初めて乗合自動車業への参入を企てたのは1922年頃であった。当時、東京市街地に路線網を張り巡らさせていた東京市街自動車は、1919年に東京乗合自動車へ改称され、さらに東京郊外への路線拡大に動き出していた。その対抗策として、京浜電鉄は1922年11月、東京は上野から横浜公園に至る自動車乗合運輸営業出願を申請したが、翌年4月には却下された。1925年7月には、高輪駅~横浜駅までに短縮して出願したが、これも却下された。二つの申請から、当時京浜電鉄は乗合自動車を電車の補完的役割ではなく、京浜間を結ぶ都市間連絡バスとして、構想していたことがわかる。これは、異なる資本系列の事業者が京浜電鉄と並行して乗合自動車を走らせることを防ぐ企業防衛策の一環であった。ところが、高輪~六郷間はすでに、東京乗合自動車が運行をしていたため、なかなか認可は下りなかった。そこでまず、八丁畷停留所と川崎運河周辺に開発された川崎住宅地の間を結ぶ路線を開設し、乗合自動車の実績をつくることとした。認可は下り、1927年8月27日より、6人乗りのフォード社製の小型自動車2両で営業を開始した。その後、省線川崎駅と川崎大師を結んでいた鶴屋自動車商会の買収、さらに省線蒲田と京浜蒲田、羽田遊園地、東京飛行場を結ぶ羽田線も開設された。その間の1929年10月29日には高輪~六郷橋間の路線も開設された。さらに横浜市電が走っており、協議が難航した生麦~横浜駅間も、横浜市に経営を委託することによって、1932年10月1日より悲願であった京浜間連絡バスが運行されることとなった。1927年の開業当初はわずか2両で始まった乗合自動車業も、5年間で43両となり、急速に発展していったことがわかる。

横浜市内中心部乗り入れと特急運転開始

京浜電鉄は市内の深奥部長者町まで乗り入れる計画を企てていたが、先述のように行政をはじめとして、鉄道省、東横電鉄、湘南電鉄、横浜市電などとの調整が必要であったために遅れた。だが横浜新駅が建設されたから、横浜市の都市計画は具体化したため、動きは急速に進んでいった。この計画で、東横電鉄は横浜駅から桜木町を経て、日ノ出町に至り、そこで湘南電鉄との直通運転をすること、そして京浜電鉄の長者町乗り入れが定められた。横浜新駅と日ノ出町駅を横浜市内の総合ステーションとして、利便性を図ろうとしたのである。そして京浜電鉄は横浜新駅~長者町に至る新線を地方鉄道法によって申請した。これは、都市計画で、新線は高架線もしくは地下線での建設が定められ、特に市内随一の繁華街伊勢佐木町付近は地下線での建設が必須とされ、莫大な資金が必要となったからである。というのも、当時は地方鉄道法にすると、地方鉄道補助法により国からの補助を得ることができたのであった。だがこの法では、軌間が1372mmだと適用外であったため、省線品川乗り入れの項でも述べた通り、1435mmへの改軌をしたのであった。また少しでも建設費を圧縮するため、野毛山を貫通する隧道の一部は開削工法をとり、さらに半地下構造の区間にした。またこれと並行して車両の新造・改良が進められた。横浜市内延長線で地下線が生じ、東京地下鉄道との直通運転を考慮して設計されたデ71形は、半鋼製の車体に当時の最新・最高技術を取り入れて、戦前の京浜電鉄を代表する名車となった。さらに防災・保安上の観点から、従来の木造車両は鋼体車体に乗せ換えられ、さらに全車でポール型集電からパンタグラフに載せ換られ、自動扉開閉装置の設置工事も行われた。こうして、様々な努力の末、1936年12月25日横浜駅~長者町間が開通した。この延伸に伴う改正より、大森海岸および生麦の待避線の使用が開始され、特急運転を開始した。この特急は従来の急行より停車駅を少なくし、品川駅~横浜駅の間を29分で結び、いよいよ京浜間は30分以内で結ばれることとなった。さらに、特急には女性車掌も乗務し、大変好評を博した。

京浜電車と京浜間モダニズム

1930前後より、川崎を中心とした京浜工業地帯ではいよいよ公害が社会問題として浮上してきた。特に川崎の水はとても飲めるものではなく、住むには適していなかった。また関東大震災後、東京から多くの人が移住し、京浜間の街は無秩序に広がっていった。そうした問題を背景として、勃興したのが京浜間モダニズムである。京浜間モダニズムは、主に労働者階級などの大衆に広まった近代的な芸術・文化・生活様式とその時代状況で、未来的で合理的な趣向であった。同じ頃大阪で興っていた優雅で流暢な阪神間モダニズムとは対なるものであったといえる。京浜電鉄はこの京浜間モダニズムに大きく影響され、また京浜間モダニズムの中心となる立役者でもあった。京浜電鉄の品川、京浜蒲田、京浜川崎、伊勢佐木町など、また小駅にまで、京浜間モダニズムは浸透していき、1933年に登場した71形などをはじめとした車両にも影響を与えた。また、それだけでなく、表示案内やポスターなどにも、グラフィックの分野として斬新な手法などが試みられた。しかし、京浜間モダニズムは広くは浸透せず、その後の大戦で一旦滞ってしまう。だが、また戦後も興って1950年代の終わり頃まで、その動きはみることができる。

1940年に完成した京浜川崎駅と、併設された京浜映画劇場ビル。京浜間モダニズムの影響を強く受けている。

泥沼となった東京市中心部への乗り入れ

京浜電鉄は品川駅で、東京地下鉄道と相互直通運転をする予定となっていたが、東京地下鉄道は金銭的な基盤が軟弱な上に、建設費が非常に高くつくため、建設は中々進まなかった。1932年10月には三井・三菱・安田・住友の四信託銀行が「地下鉄融資団」を結成し、なんとか新橋までの工事を乗り切る見通しが立った。しかしその先の新橋~品川間は東京地下鉄道だけでなく、京浜電鉄側からしても、いち早く開業させたかった区間であったのだが、早期に着工する見通しは全く立っていなかった。そこで東京地下鉄道の生みの親にして、専務取締役であった早川徳次は、京浜電鉄社長の生野団六に対して、共同で新会社を設立させることを促した。新たに会社をつくることによって、新線の建設をスムーズに行うことが可能となり、開業前には東京地下鉄道と京浜電鉄、京浜地下鉄道の三社を合併させ、京浜間に巨大なテリトリーを築かせるというものであった。こうして、京浜地下鉄道は1935年3月1日に生野団六を社長、早川徳次を専務取締役にして設立された。翌年には工事への認可が下り、いざ着工へと取り掛かった。ちょうどその頃、地下鉄にはある別の動きが着々と進められていた。

東京地下鉄道が好成績を収めているのをみた実業家らは、地下鉄事業というのは有望なものだと読み、東京市が所有していた地下鉄の計画線の譲渡請願をしたのである。元々東京の地下鉄建設は原則的に市で行うとされていたが、震災復興などの事業の影響で、市の財政は火の車となっていた。そこで、その東京市の財政難を逆手に取り、自らも地下鉄事業を行おうとしたのである。そして、1934年9月5日に新たに東京高速鉄道が設立された。この東京高速鉄道には、東京横浜電鉄系の総帥であった五島慶太を常務取締役として迎え、実質的には実権者という具合であった。東京高速鉄道が市から免許を譲渡された区間は「渋谷~東京・新宿~築地」で、また免許を譲渡するにあたって、「いずれ東京地下鉄道と合併すること」「60年後には東京市に無償提供すること」などという条件が付加されていた。だが、慶太は渋谷から東京までの路線では十分な収益を上げることが難しいため、新橋駅で東京地下鉄道と直通運転をし浅草まで乗り入れるのが果策だと考えていた。他の重役は、東京市から譲渡された免許に従っていないと大きな反発があったが、慶太は「免許譲渡の条件に、東京地下鉄道との合併が盛り込まれているから、新橋駅に乗り入れるのは当たり前の話ではないか」と反論し、免許線とは異なる渋谷~新橋間の工事認可を出願した。この認可に激しく反発したのは東京地下鉄道の早川であった。早川は、東京高速鉄道と東京地下鉄道の直通運転について全く話を受けていなかった。ましてや、東京地下鉄道は京浜電鉄と直通することが決まっており、既に新橋~品川の建設工事に着手しており、後から合併したいだとか、直通したいだとか言われても、無理な話であった。そういうことから、早川は東京高速鉄道の直通運転・合併については断った。しかし、慶太の攻勢は止まない。慶太は、東京市からの免許譲渡条件に、東京地下鉄道との合併が盛り込まれていること、さらに東京市内の交通政策上、東京地下鉄道は京浜電鉄と合併するよりも東京高速鉄道と合併するほうがより合理的だと主張した。それに対し早川は、合併を条件にしているなら、別に直通運転をしなくてもいいわけで、東京市から譲渡された渋谷~東京間の路線を建設するべきだと主張したのである。そういうわけで、両者は互いに平行線をたどっていき、一向に話がまとまらなかった。全く話を聞き入れなかった早川に対して腹を立てた、慶太は買収によって自分の手の内におさめることを果策したが、その強引なやり手から、鉄道業界から財界、世論までが巻き込まれ、ついには鉄道省までが動いた。両社の仲裁役として鉄道省が示したのは「早川・五島の両氏は共に地下鉄事業から手を引くこと」「現在建設中の京浜地下鉄道及び東京高速鉄道は、新橋駅にて交互に東京地下鉄道線へ直通運転を行う」「これ以上、営利のために路線網が乱れるのを防ぐため、公益性を重視し、帝都地下交通の一元化を図るため、新たに帝都高速度交通営団を設立する」「東京地下鉄道・京浜地下鉄道・東京高速鉄道は帝都高速度交通営団に統合される」等というものであった。こうして、1939年5月1日に帝都高速度交通営団が発足され、同年9月16日より、京浜電鉄は営団地下鉄との直通運転を開始することとなった。京浜地下鉄道に多額な投資をしたのにも関わらず、結局営団地下鉄に取られてしまう形となってしまい、非常に惜しいものとなってしまった。しかし京浜電鉄の特急が東京随一の繁華街浅草と、横浜随一の繁華街伊勢佐木町を結ぶようになったので、鉄道省京浜線から多くの客を奪還することが出来たのである。


こうして、京浜電車は戦前の黄金期を迎えた。しかし、時代の流れは非常にむなしく、再び大戦へ入り、暗黒の時代へと突入してしまう。