本格的な高速電車へ

1923年の関東大震災の復興を機に、横藤電車は路面を走るという電車から高速で走る電車へ生まれ変わることになりました。それは復興と共に車両や施設の大型化をしたからで、施設といえば新たに高架線で横浜市内中心部の伊勢佐木町、桜木町への延伸や併用軌道の新設軌道化が挙げられます。一方の車両の高速化として登場したのが31形なのでありました。

たまごのようなカタチ

1号形、21号形から続いた路面電車スタイルは払拭し、車両の大きさ1号形などと比べ高くなりました。また31形は横藤電車初の鋼製車で、同年に登場した京浜51号型、阪急300形、阪神601形などと共に日本のインターアーバンとしては最初期の半鋼製車として知られます。中でも阪神601形とは姿がまるでそっくりで、前面はたまご形状のアメリカで大流行した5枚窓スタイル、側面長もほとんど同じく約14mです。また阪神601形と同じ特徴といえば運転室です。当時の横藤電車は軌道から発達したためか、運転室は左ではなく中央部にありました。しかし31形からは貫通扉が設置されたため運転室と被ってしまいました。そこで貫通扉をはさんでマスコンとブレーキハンドルを設置しました。そのため運転士は両手を貫通扉分大きく広げてマスコンとブレーキハンドルを掴まないとならないので、その両手を広げて運転する姿は正にバンドのドラマーのようでした。

 

高速電車の始祖

主電動機は1号形の頃から採用してきたウェスティングハウス社のWH546-Jを4基搭載しました。制御機はウェスチングハウスのHL式、ブレーキはSME(直通ブレーキ)、台車はブリル社のものに変更し、また歯数比を3.65と低く設定し、高速走行を可能にしました。しかし低速域も見事なもので、また3扉であることも理由に急行車ながら普通電車にも使用されることが多々ありました。その後1930年に急行運転を開始するために、集電装置をトロリポールからパンタグラフへ、連結運転を行う為、ブレーキ方式をSMEからAMMへ改造し、ウェスティングハウス・エレクトリック社の密着連結器を装備しました。この連結器はジャンパ栓を必要としないのが特徴で、横藤電車では1970年まで使用されていました。またドアエンジンも設置し、素早くドア開閉が行えるようになりました。

31形の歩み

31形の登場は大きな衝撃を与えました。横藤電車=路面電車というイメージが払拭され、正に高速電車の始祖ともいえます。31形は性能がいいためひとつ前の電車に追いついてしまうなんてこともあったそうです。

1930年に横藤電車は横浜に進出しました。それと同時に新型車100形の導入と急行運転を開始しました。31形も100形と同一性能だったために急行運用に投入されました。それに際しては先述した通り、集電装置・ブレーキ・連結器などを改造しました。またホームの高さが嵩上げされたため、乗降用ステップは取り外されました。31形は普通運用もこなしましたが、どちらかというと優等運用に入ることが多く、この頃から横藤電車は急行系と普通系の2種類に分けようとしていた姿勢がうかがえます。

その後の大きな車両の動きはありませんでしたが、戦後に大きな変更がされました。車幅の広い新型車が入り、小型車はホームと車両の間が広く開いてしまうことから31形も含め100形などの小型車にステップが設置されました。

そして1970年の昇圧と同時に全廃となり全車両が解体されました。